僕の家からは2本吊り橋がかかって、一つは関の沢までの橋でした。だからね、僕は橋本って呼ばれていたんだ。
僕の家では自給用にしかお茶をつくってなかった。農業での収入は20パーセントくらいで、その代わりに、旅人宿っていう宿をやってたんだ。そのころは、行商がいてね。衣服を売りに来る人やら富山の薬屋さんやら熊の胆(い)とか正露丸を持って来る人たちが泊まってたよ。宿を歩き売りの拠点にしていたんだ。
 宿の仕事は主に女の人がやっていたよ。今で言うバイキング方式で家族も含めて一緒に食べる形で、ご飯を出してた。そのころの食べ物は、冬場なんかは大根をほしたものだったり、さつま芋や豆みたいな保存がきくものを食べてたね。自給自足の一歩手前だったね。あとは猪と鹿の肉とか熊、山鳥、兎なんかがいっぱいいてそれを食べていた。おやじもそうだったけど猟師がこの辺にいっぱいいて自分でとってくるんだよね。それと、おやじは、農業やるより筏流しをしていて、木と一緒に木炭なんかを筏に乗せて静岡に運んでたんだ。僕は、手伝いをしていたぐらいで、実際に筏に乗ったことはないんだけどね。それで親父が静岡に行って、その帰りに、塩漬けの魚やいるかをでっかいままもってきてくれたね。その魚がまぁしょっぱくてね。
 生活は大変だったと思うけどね。子供だったからおやじが経済まわしていたからね。でも楽しかったんじゃないかな。いや、楽しくねえか。暗憂の時代で、一部は良かっただけでほとんど経済が大変だったと思うな。