<梅薫楼-旅館館主 手塚昭二さんのお話> 
-昭二さんに旅館の歴史についてお聞きしました-

 ここの温泉は今から約1700年前に発見されて、その後湯治湯としてよく知られるようになったのは武田信玄の時代です。梅ヶ島には日影沢金山という武田家の御用金山があり、その金山をめぐって長い間武田氏と今川氏の勢力争いが行われたようです。それらの合戦で傷ついた侍たちや、病を癒しに来た人たちもこの温泉にやってきました。また甲州からの修験者も体を休めに来ていて、その頃は観光というよりも「湯治」のためにくるお客さんが多く、今のように日帰りや1泊2日など短い期間ではなく2週間や1か月といった長い期間を宿で過ごす方が多くいました。
 また山には食料が少なく、この地域は田んぼがないので多くのお客さんは自分たちで米などの食料を持ってきて、自分たちで調理して食事をしていました。戦時中の配給制度でお米を食べることができて喜んでいたことをよく覚えています。
しかし戦争が激しくなってきた昭和18~19年には旅館の権利を奪われてしまい、戦争に行った兵隊さんたちを収容し、癒す場として使われていました。経営者だった私たちは追い出されてしまい、その時は東京でホテルマンとして働いていました。
 終戦後、1950年には静鉄バスが開通し、梅ヶ島で登山の国体があったこともあり、観光のために来るお客さんが増えました。
 お客さんは常に変わります。ニーズもそれぞれの時代で違うし、数値じゃ測れない。毎日変化します。時代の流れに旅館が合わせるのって大変なんです。でもそこが接客業の面白さであり、常に進化し続けることを心がけています。反対に、旅館には良い意味で昔と変わらない部分もあり、そういった部分は残していきたいと考えています。

-84歳の昭二さんから現代を生きる私たちにメッセージをいただきました-

 多くの物事に8:2という比率が共通していると感じます。海と大陸も8:2です。「村八分」という言葉もありますよね。昔は村八分といってもその他の2割も受け入れてあげていました。ある意味その2割も面倒見てやるのが「村」だったんです。どんなやつでも受け入れた。でもそれが必要だった。現代はその2割を排除していますよね。そこが現代の日本の生きにくさにつながっているんじゃないかな。現代は昔とはまた違った大変なことが多くあると思うけど頑張って!

<阿久津、中西、石丸>