大代の農業~こんにゃくからお茶へ~
昭和30年代から40年ころにかけて、こんにゃくをやめて、みんなお茶をやるようになった。
お茶はもともと少しあったところと、こんにゃく畑をお茶に変えてやった。そのころ梅ヶ島に茶業研究会というもんがあって、お茶のやぶきたという品種が良いということだった。それで茶業研究会が買ってきたやぶきたを分けてもらって、植えただよ。
そのころは各家で製茶していたな。それで、それじゃあ大変だってんで、大代に共同の工場を作ろうってことになった。工事資金は静岡市から近代化資金を借りてやることになった。そのとき大代の人らにその了承を得るために、おらともう1人で1軒ずつ家をまわっただよ。それで工事ができることになって、昭和45年に工場が完成した。
共同組合の初代組合長は志村昭さんで、他にも販売係や製造部長、会計とか他にも色んな役職があった。昭和49年からはおらが組合長になって、昭さんが副組合長になった。そのころ大代のお茶は味が濃くてくせがあって、なかなか高く売れなかったんだがな、農協の販売担当の人が売り込んでくれた。あとは、商人が駆け引きが上手でな、負けないようにするのが大変だった。
そのあと、昭和50年に静岡市の農協から話があって、大代のお茶が全国の品評会に出ることになった。昭和54年まで4年間やることになるんだが、2等が2回で3等が2回と毎年入賞しただよ。初年度の会場が九州の嬉野(佐賀県)で、船で行って2泊したな。八女(福岡県)のお茶を見に行ったりもして、楽しかった。工場の運営も上手くいっていた。
志村伝一君がずっと会計をやってて、等級によって配当を分けるための計算があってな、それがすごかっただよ。運営を見に春野町(現浜松市)から見学に来たりしたもんだ。だけど、品評会の受け持ちが終わったころから、大代の人が減ってきたり、お茶の価格が下がってきたりした。平成9年に大代の工場をやめて、梅ヶ島の共同工場のまるうめ共同茶業組合で今の形でやることになった。