大代の農業~養蚕からこんにゃくへ~
自分らが小さい頃は各家で養蚕をしていた。今、ここの家の2階は部屋になってるけど、昔はそこでカイコを飼ってな、まゆを作らせていただよ。
それで、そのまゆを山梨の人らに売って生活していた。でもだんだんまゆが売れなくなってきてな、稼ぎが十分じゃなくなってきた。そうして戦前の昭和15年ころ、カイコをやめた。
そのあとはこんにゃく栽培をして稼いだ。当時もともと各家でこんにゃくを作っててな、それを本格的にやり始めただよ。今までカイコのえさのクワを作っていたクワ畑をこんにゃく畑に変えてな。最初は普通にこんにゃくが育ったけど、ちょっとずつ葉とかに病気がでるようになった。
そのとき、志村正吉さんという昔大代に住んでいた人が、肥料や消毒について勉強しに行きたいと言った。正吉さんは頭がよくきれる人で、大将と呼ばれてただよ。
それでおらが24歳くらいだか、終戦後のお盆休みに大将と、そのお供で志村㐂市さんとおらの3人で群馬の下仁田へ教わりに行った。それで、大将は消毒について詳しく説明できるようになってな、こんにゃく博士と呼ばれるようになった。それから消毒が効くようになって病気が減ってな、大きなこんにゃくが作れるようになっただよ。
作ったこんにゃくは下の、今で言う静岡の街のほうに住んでいる人らが買いに来た。終戦後はそりゃあ高く売れたもんだ。こんにゃくがまだ畑にうわっていて掘る前なのに、この区画分買うとか言われて先にお金渡されてな、それからこんにゃくを掘ったということもあった。
大代で良いこんにゃくが出来ているということで、静岡の人たちが、特に梅ヶ島周辺の人らが多かったかな、大代まで視察にきたこともあっただよ。だけどそのあとに、消毒が効かなくなってきただか、こんにゃくが病気で溶けてしまうようになった。
最初、病気になったこんにゃくはそれほど多くなかったけどな、だんだん病気にかかるこんにゃくが増えてきた。今思えば、こんにゃくを同じ畑でずっと作り続けていたから、連作障害だったのかもしれないな。同じ畑で同じ作物を作り続けると生育不良になってしまうみたいだな。それでこんにゃくも、こりゃあだめだ、こんにゃくでは食っていけんということになった。